【画像】内田裕也は若い頃イケメン!樹木希林との馴れ初めは?島田陽子との関係は?

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ロック歌手としてデビュー後、ドラマ・映画などで俳優としても活躍を続けてきた内田裕也さん。

口癖の「ロックンローン」で親しまれ、「日本ロック界の首領(ドン)」と呼ばれてきました。私生活では女優・樹木希林さんの夫としても知られています。

今回は内田裕也さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!

目次

【画像】内田裕也は若い頃イケメン!

10代・20代(1949年~1969年)

内田裕也さん
引用元:サンスポ

内田裕也さんは、兵庫県出身で、中学生時代は生徒会副会長を務めるなど、まじめに勉強に取り組んでいましたが、その一方で不良化の兆しもあったようです。

大阪府立旭高等学校へ進学後、エルヴィス・プレスリーに憧れ、箒をギター代わりに、ロックンロールに夢中になっていました。その後、高校を退学し、1956年(当時17歳)には大阪府立三国丘高等学校の夜間部へ転校しました。

1957年(当時18歳)には佐川ミツオさんと共に『ブルー・キャップス』を結成し、音楽で生きていくことを決意しました。上の画像は同年に『ブルー・キャップス』でロカビリーを歌っていた時のものです。初々しいながらも、すでにロックンロールへの情熱があふれる表情が印象的ですよね!

その翌年『ブルージーン・バップス』を結成し、メンバーには、美川鯛二(現:中村泰士)さんや北原譲二さんなどが名を連ねていました。

翌1959年(当時19歳)、渡辺プロダクションの所属となり、日劇『ウエスタン・カーニバル』に初出場し、ついに音楽業界デビューを果たしました。

内田裕也さん
引用元:サンスポ

内田裕也さんは、1966年(当時26歳)の時に、『The Beatles』の伝説的な日本武道館公演にて、尾藤イサオさんとのツインボーカルで前座を務めました

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ブルージーンズを従えた特別編成のバンドをバックに、The Beatlesとの共演にあたり作った曲『ウェルカム・ビートルズ』を披露しています。

この時内田裕也さんは「なぜ、前座といわれるのか?冗談じゃねェ。本気でロックンロールしてるんだゼ。負けてたまるか!」とお話しされており、日本のロックンロールに対する強い誇りと情熱を持っていたことが伺えます。

上の画像はその公演をステージ正面の席に座り鑑賞した時のものです。右が尾藤イサオさん、左が内田裕也さんです。かなりの特等席で鑑賞されていて羨ましいですね。

アルバム『Challenge!』
引用元:Amazon

内田裕也さんは、1966年(当時27歳)の時に、沢田研二さんが所属するバンド『ファニーズ』を見出し、『内田裕也とタイガース』として、ステージデビューを果たしました。

しかし、翌年にタイガースが渡辺プロダクションに加入したことで、ロック一筋の志と合わず、計画が頓挫してしまい、ついには嫌気がさして単身ヨーロッパへ旅立ちました。

内田さん帰国後の、1968年(当時29歳)の時に、麻生レミさんをヴォーカルに迎え『フラワーズ』を結成しました。

この時「源氏物語を(ロック)アルバム化するのが夢だ」と語っていましたが、完成したアルバムはオリジナル曲『左足の男』を除き、英米ロックのカバー曲が中心となりました。のちに「当時はそれがフラワーズの実力(限界)だった」と振り返っており、彼自身の思い描いた形には到達できなかったと語っています。

上の画像は1969年に発表された『フラワーズ』アルバム『Challenge!』のジャケットです。メンバーのヌード写真や、斬新なステージングも話題を呼び、日本のロックシーンに衝撃を与えました。

ギモンくん

内田裕也さんは、どうしてヨーロッパから帰国後にすぐバンドを結成したのかな?

カイケツさん

それはヨーロッパで、『クリーム』ジミ・ヘンドリックス』ザ・フー』といった新世代のロックに触れ、その革新性とパワーに衝撃を受けて息を吹き返したからみたいよ!

30代(1969年~1979年)

引用元:Instagram

内田裕也さんは、1973年 12月(当時34歳)に、現在の『NEW YEAR ROCK FESTIVAL』へと続く、記念すべき第1回目となる年越しイベント『フラッシュ・コンサート』を渋谷西武劇場(現:PARCO劇場)で開催しました。

この時、「紅白だけが祭りじゃないぜ!」をスローガンに掲げ、日本のロック界を盛り上げるとともに、ロックの精神を貫く新たな年越しの形を提示しました。

このイベントはその後、開催地や名称を変えながら続き、今もなお内田裕也さんの意志がしっかりと引き継がれています。上の画像は上の画像は2022年に50周年を迎えた時のものです。多くのアーティストや俳優陣が参加し、盛大なイベントになったようですね!

内田裕也さん
引用元:BS松竹東急

内田裕也さんは、1977年(当時37歳) の時に、坂口安吾原作の映画『不連続殺人事件』で主要キャストの1人、土居光一役を演じました。

本作は、これまで司会者やロカビリー歌手など、地に近い役柄を演じてきた内田裕也さんにとって、初めて本格的に俳優として挑んだ作品 でもあります。

この時ご本人は「俺、芝居なんてやったことないし、下手クソだぞ」と話していたものの、「計算された傍若無人な不遜さに、内田裕也のキャラクターはうまくはまっていた」 と評され、その怪演が大きな話題を呼びました。

上の画像は映画のワンシーンです。鋭い視線と独特の佇まいが、内田裕也さんの持つカリスマ性を際立たせていますよね!

ギモンくん

1974年には内田裕也さんがプロデュースしたイベント『郡山ワンステップ・フェスティバル』に、オノ・ヨーコさんが出演しているよね?

カイケツさん

その前年に『ニューミュージック・マガジン』で対談を連載し、オノ・ヨーコさんとジョン・レノン夫妻と出会い、親交を深めていた内田裕也さんが直接オファーしたらしいよ!

40代以上(1979年~)

内田裕也さん
引用元:内田裕也オフィシャルサイト

内田裕也さんは、1991年(当時51歳) の時に、東京都知事選に立候補し、前例のない型破りな選挙活動で注目を集めました。

この時内田裕也さんは「行動派として尊敬していたアントニオ猪木氏が突然、知事選出馬を取りやめたことがきっかけ。ロッカーとしてのパワーを示すつもり。」とお話しされており、政治の世界にもロックの精神を持ち込もうとしたことが確認できます。

上の画像は当時、東京都知事選の際に使用された直筆サイン入りの選挙ポスター です。選挙終了後、ファンによって回収され、貴重なコレクターズアイテムとなりました。

内田裕也さん
引用元:内田裕也オフィシャルサイト

内田裕也さんは、2011年(当時71歳) の時に、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市を訪れ、『HELP!』 Action! 「炊出し&ミニライブ」 in 石巻と題して『Power To The People』などを熱唱し、被災者を励ましました。

「自分たちの足と歌で集めた善意は、自分たちの足と歌で届けたい」 とお話しされており、震災直後から東京や大阪などで街頭に立ち「今ROCKがヤレルコト!『HELP!』」をテーマに募金活動を行い、さらに「内田裕也 HELP!基金」を立ち上げるなど、音楽を通じた復興支援に尽力されていました。

上の画像は石巻市でミニライブを行った際の内田裕也さんです。被災者に向けて力強く歌う姿が印象的で、音楽の力で励まそうとする彼の真摯な姿勢が伝わってきますね!

ギモンくん

内田裕也さんは、どうして石巻を選んだのかな?

カイケツさん

それは、「死者や行方不明者など最も被害が大きいところ。真っ先にここに来るべきだと思った」という思いと、「石巻は、英語で言えばロックンロール。何か縁を感じた」という理由からみたいよ!

内田裕也さんが所属していた”渡部プロダクション(現:ワタナベエンターテインメント)”には他に誰が所属してる?

ネプチューンさん
中川翔子さん
林修さん
引用元:ワタナベエンターテインメントしょこたんねっとワタナベエンターテインメント

内田裕也さんがかつて所属していた渡辺プロダクション(現:ワタナベエンターテインメント)には、お笑い芸人のネプチューンさん、タレントの中川翔子さん林修さんなどが所属しています。

【画像】内田裕也と樹木希林との馴れ初めは?島田陽子との関係は?

樹木希林との馴れ初めは?

内田裕也さん
引用元:スポーツ報知

樹木希林さんと内田裕也さんの出会いは、1973年のドラマ『時間ですよ』の撮影現場でした。

共演していたかまやつひろしさんを通じて内田さんと初対面を果たし、樹木さんは「ロッカーなのに律義な人」、内田さんは「カッコいい女だな」という第一印象だったそうです。

その後、樹木さんは縁結びの神として知られる出雲大社を訪れた際、境内で内田さんの姿が浮かぶという不思議な体験をし、「また会えるお告げ」と感じた直後、本当に東京・六本木の寿司店で偶然再会しました。それから意気投合した2人はすぐに同居を開始し、それからわずか1ヶ月で結婚するというスピード婚でした。

上の画像は婚約発表の時のものです。お2人ともとても幸せそうな笑顔ですが、結婚からわずか1年半で別居しました。しかし、激しい喧嘩や長い別居生活を経ても、正式に離婚することはなく、生涯にわたって独特な夫婦関係を貫きました。

内田裕也さん
引用元:デイリー

上の画像は、書籍『樹木希林 120の遺言』に収められた、妻の樹木希林さん、娘の内田也哉子さん、娘婿の本木雅弘さん、そして孫たちとの家族写真です。

樹木希林さんが家族についてのエピソードを語った際に、内田裕也さんの本音も明かされていました。

内田さんの話をするときの希林さんは、やっぱり何だか楽しそうだ。ならば訊いてみたい、「希林さん、今、幸せですか?」とーー。「それは……幸せなんじゃないの? だって、内田が言うんだから。『孫が3人もいて、お前みたいに幸せな女優はいないぞ!』って。だから私も負けじと、『孫が3人いるロックンローラーもいないでしょう?』って言い返す。そうすると、内田さんも認めます。『う……わかってる、俺も幸せだ!』って(笑)。

引用元:JOSEISHI.NET

2018年9月樹木さんが75歳で逝去後、内田裕也さんは、自身のホームページで以下のコメントを残しています。

最期は穏やかで綺麗な顔でした。
啓子 今までありがとう。
人を助け 人のために祈り 人に尽くしてきたので 天国に召されると思う。
おつかれ様。安らかに眠ってください。
見事な女性でした。

引用元:内田裕也オフィシャルサイト

そのわずか半年後の2019年3月、後を追うように内田さんも79歳で亡くなりました

生前、樹木さんは「お互いに中毒なんです。主人は私に、私は主人に」と語り、長年の独特な夫婦関係を象徴するような言葉を残しています。

ギモンくん

内田裕也さんは、樹木希林さんの最期に立ち会えたのかな?

カイケツさん

直接は立ち会うことはできなかったけど、電話越しに「啓子、しっかりしろ!」って呼びかけたら、握っていた孫の手をぎゅーって強く握り返したみたいよ!

島田陽子との関係は?

内田裕也さん
引用元:zakzak by夕刊フジ

内田裕也さん(当時49歳)と島田陽子さん(当時35歳)の不倫関係は、1988年の映画『花園の迷宮』での共演がきっかけでした。

映画には島田さんのオールヌードシーンがあり、撮影の進行が遅れるほど彼女は悩んでいました。そんな中、宿泊先のホテルのドアに、内田さんからのメモが残されていたといいます。

今、大変悩んでいらっしゃると思います。自分の意見をひと言言わせてください。裸になることで、あなたの品位は1ミリたりとも傷つきません。

世間の荒々しいロックンローラーのイメージとは異なり、内田さんの言葉には繊細な優しさがにじんでいたのです。さらに、彼は雨の中、傘もささずにスタジオへ向かう島田さんをじっと待っていたといいます。この出来事がきっかけで、2人は絆を深めていきました

内田裕也さん
引用元:FRIDAYデジタル

上の画像は、『FRIDAY』(1988年4月22日号)がキャッチした、島田さんと内田さんの「密会ハワイ旅行」の時のものです。

内田さんと島田さんは8年間にわたる交際があったようですが、島田さんが借金をして内田さんに貢いでいたともいわれています。破局後も借金問題などの騒動が続いたようです。

そんな2人が最後に会ったのは2018年8月で、都内のホテルのカフェで偶然の再会を果たしました。

その夜、内田さんは島田さんに電話をかけ、「あの時代が懐かしい」、「あの時期は幸せでした」と語ったといいます。それが、2人が交わした最後の会話となりました。

ギモンくん

内田裕也さんの不倫が発覚しても、樹木希林さんは離婚しなかったの?

カイケツさん

内田さんは離婚届を勝手に提出したことがあったんだけど、樹木さんはそれを認めず、離婚無効の訴訟を起こす騒動となったみたいよ!

内田裕也さんがデビューした1959年はこんな年だった!

皇太子(現上皇)さまのご結婚パレード
メートル法の完全実施
『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』の同時創刊
引用元:NHKアーカイブスウィキペディア少年サンデー公式サイト

内田裕也さんがデビューした1959年は、「皇太子(現上皇)さまのご結婚パレードをテレビ中継」、「メートル法の完全実施」、「『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』の同時創刊」などの出来事があり、話題となりました。

また、この年の流行語には、「カミナリ族」や日活がつくった石原裕次郎のイメージ「タフガイ」、女性のあこがれの職業であるスチュワーデス、スター、セレクタリー(秘書)を指す「3S(スリーエス)」などがありました。

内田裕也のプロフィール・SNS

内田裕也さん
引用元:内田裕也オフィシャルサイト

プロフィール

  • 名前:内田 裕也(うちだ ゆうや)
  • 本名: 内田 雄也(うちだ ゆうや)
  • 生年月日:1939年11月17日
  • 年齢:享年79歳(2019年3月17日逝去)
  • 出身地:兵庫県
  • 血液型:B型
  • 口癖:Rock’n Roll!
  • 所属事務所:株式会社内田裕也オフィス

SNS

内田裕也さんオフィシャルサイト
ギモンくん

内田裕也さんのロックに憧れたきっかけって何なのかな?

カイケツさん

1976年に出した初の単行本『俺はロッキンローラー』で、「かっこいい兄ちゃんになりたい」という素朴な憧れと、「ガキながらも、俺はなにかやってやろうと思ったんだと、いまになって思う。」と語っているみたいだね!

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