姉妹漫才トリオ「かしまし娘」長女の正司歌江さん。
わずか3歳で初舞台を踏み、その後は妹さん達とコンビやトリオで活躍されてきました。
今回は正司歌江さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】正司歌江は若い頃かわいい!
幼少期・10代(1929年~1949年)
引用元:サンスポ
正司歌江さんは、北海道の天塩郡遠別町(てしおぐん えんべつちょう)で旅役者のご両親の間に生まれました。お父さんは元は鳥取の石材店勤務でしたが興行師になり、お母さんは看板歌手でした。
多くの出版物に「両親の巡業先の北海道歌志内市(うたしないし)で生まれた」と記載されていますが、正司さんを取り上げた産婆さんの妹さんが遠別町での講演に来て「あなたはここで生まれた」と伝えたそうです。
正司さんは3歳で初めて舞台に立って津軽じょんがら節を披露しました。のちの「かしまし娘」結成後に担当する三味線は、7歳頃にご夫婦の漫才師さんの奥さんから教わります。
あちこち旅する生活で学校には通わなかったため、漢字が読めるようになったのは結婚して旦那さんに教わってからだったと語っています。
こちらの画像は、当時24歳の都上英二(とがみ えいじ)さんとコンビを組んで漫才をしていた、7歳の頃の正司歌江さんです。正司さんが字が読めないため台本なしでしたが、お2人の掛け合いは非常にウケたそうです。
引用元:サンスポ
その後は相方の都上さんが結婚して上京したため、妹の照枝さん(当時は照江さん)とコンビを組むことになりました。正司歌江さん11歳、照枝さん7歳の頃のことでした。
小さい女の子が男装をして三味線とギターを弾く姿はお客さんにとても喜ばれ、あまりに大きい歓声と拍手にびっくりして泣きそうになるくらいだったのだとか。
男装をしていたのは「女の子の着物はお金がかかる」「男装ならネクタイを変えるだけで済むから安い」というのが理由だったようです。こちらもネタは出たとこ勝負でしたが、「天才少女漫才」と話題になりました。
正司さんが15歳の頃に、結核で入退院を繰り返していたお母さんが亡くなります。
そして一座の男性と最初の結婚をして19歳で出産しますが、お父さんに反対されて「芸人をやめる」と家を飛び出したそうです。
その後はキャバレーで働いたり、騙されて富山で芸者をしたりで苦労の連続だったと語っています。

台本なしの漫才って成立するものなんだね。
どういう感じだったんだろう?

都上英二さんとは「新婚旅行に連れて行って」「あんた新婚旅行の意味分かるの?」「分からないから連れて行って」といった掛け合いをしていたみたいだよ!
成人男性と小さい女の子のこんな漫才は、今だったら見られないね。
20代(1949年~1959年)
引用元:Wikipedia
正司歌江さんの苦労というと、薬物中毒だったことも避けては通れない話題ではないかと思われます。
この時代は「ヒロポン」という覚醒剤が販売・使用ともに合法で、「疲れが取れる」とうたわれて薬局などで簡単に手に入ったようです。正司さんは12歳の時にヒロポンに手を出し、やめたのは20歳過ぎでした。
妊娠中は一時的にヒロポンをやめたものの出産後にまた使用するようになり、お父さんからは勘当されて照枝さんからも愛想をつかされましたが、21歳の時に照枝さんからヒロポンと手紙を渡されました。
「いつかまた昔のお姉ちゃんに戻ってほしい」と伝えられたことで、「このヒロポンは打ったらあかん。ヒロポンは絶対やめなあかん」と心に誓って薬物を断ちました。
薬物への依存というのは恐らく心も体も依存するもので、心ではいくらやめたくても、体が薬を求めてなかなかやめられないということも多いのではないでしょうか。
そんな状態で薬物を断つことが出来たというのは、よほど妹さんの想いに胸を打たれたのだと思われます。
1956年(当時27歳)、妹の照枝さんと花江さんのお2人で漫才をしていましたがウケなかったことから、のちの松竹芸能社長・勝忠男さんに「確か姉がいたな。姉を呼べ」と言われて正司さんは富山から大阪へ向かいました。
1日だけ稽古して南街ミュージックホールで初めて3人で舞台に立ったのが、「かしまし娘」のデビューでした。
こちらの画像はかしまし娘結成時のブロマイドで、真ん中が正司歌江さんです。皆さんの明るさや華やかさが伝わってきますね!
引用元:スポーツ報知
トリオ名は最初は片仮名で「カシマシ娘」でしたが、梅田の北野劇場に出た時に間違って「かしまし娘」と書かれ、「この方がやさしくていい」と言われて正式に採用されました。
かしまし娘といえばテーマソングも有名ですよね。
「♪ウチら陽気なかしまし娘 誰が言ったか知らないが 女三人寄ったら かしましいとは愉快だね
引用元:Uta-Net
Very good good Very good good お笑い おしゃべり ミュージック
明るく歌って Night and Day ピーチクパーチク かしましい」
この歌は正司歌江さんが7歳の頃に一緒に漫才をしていた都上英二さんの作曲で、作詞は脚本家の大村淳一さんが担当し、レコード化もされました。
正司さんは富山での生活が長かったためか、どうしても富山弁が出て怒られてしまい、「やめたい」と言ったこともあったそうですが、当時人気の茶川一郎さんに「あんたらが入ってきてくれて活気が出たよ」と言ってもらえたことで続けられたと語っています。
引用元:週刊女性PRIME
歌謡曲・浪曲・民謡・小唄・長唄を一通りこなす器用さ、若手3姉妹トリオは他にないこと、勝忠男社長の後押しを受けたこと、民放テレビ局が勢力を拡大していく時期に当たったことなど色々な要素が重なって、かしまし娘は人気者になりました。
当時のテレビは生放送のみで、舞台とテレビで休む間も無かったそうです。東京では大阪弁が通じなかったため錚々たる関西の芸人さんがウケなかったそうですが、かしまし娘は音楽を通じて分かりやすかったのか、人々から親しまれ、ラジオやテレビに多数出演しました。
今でも動画投稿サイトなどに「本物の芸人さん。ギターがギブソンっていうのも痺れる」「子供の頃当たり前のように聴いていたけどこんなに素晴らしい歌唱だったんだ」などのコメントが届いています。
また、売れっ子時代のスケジュールは凄まじかったのだとか。1日に大阪と東京を2往復することもあり、それも当時は新幹線が通っていないので全て飛行機での移動でした。「飛行機が出なかったりすると大変でね。そんなときは待つしかないんで。マネージャーも一緒に麻雀してました。忙しくて、そんなときしか遊ばれへんから。折り畳みの麻雀台を持ち歩いて、空き時間に打ってたんです」と、のちに花江さんが語っています。

かしまし娘は全員が楽器を持ってるから、皆さん楽譜が読めるのかな?

妹さん達は読めるけど、正司歌江さんは読めないみたいだよ。
でも音感がいいから全然知らない曲でも三味線でついていけるんだって!
30代(1959年~1969年)
引用元:産経新聞
生放送のみだったテレビで収録が出来るようになると、舞台の後にテレビ局に行って収録という生活になります。
東京と大阪を行ったり来たりしていたのはこの頃も変わらず、1964年に東海道新幹線が開通した後は花江さんが新幹線のホームに走って行って、足でドアを止めて「お姉ちゃん、早く!」なんていうこともあったそうです。
売れっ子も度を過ぎると辛いもののようで、化粧を落とす暇も寝る暇もなく、特に肺結核を患っていた照枝さんはかなり無理をされていたのだとか。
会社は所属の芸人さんが働くほど儲かりますが正司さん達は月給制のため、どれだけ働いてもお給料は同じです。「そんなに売れなくてもいい」と思うようになっていき、松竹芸能の勝忠男社長に「休ませてください」と言ったそうです。すると次の週からパタッと仕事がなくなって「嬉しい」と思いましたが、3日も休むと飽きてきて謝りに行ったと語っています。

かしまし娘は喧嘩が激しかったって言うけど、姉妹仲が悪かったのかな?

確かに喧嘩が絶えなくて他の芸人さんに迷惑がかかるから、かしまし娘専用楽屋や運転手付きの車が用意されてたみたいだね。
だけどあくまで芸の上での喧嘩で、私生活では仲が良かったんだって。
40代以上(1969年~)
引用元:産経新聞
かしまし娘は1980年に25周年を迎えました。
活動が終わったのは1981年で、先に新聞に出ていたそうです。記者に「かしまし娘やめるんですってね」と言われ、正司さん達はそのようなことは聞かされていなかったので驚いたのだとか。
その3日後にようやく勝社長に会えましたが「かしまし娘は今の時代に合わない。定年しなさい」と言われて活動を休止し、3人はピン芸人・タレント・女優として別々に活動していくことになりました。
ですがユニットとしては2024年に正司歌江さんが亡くなるまで健在で、テレビ番組やCMなどで3人揃って出演したり舞台公演を行ったりされていました。
こちらの画像は、1980年で当時51歳の正司歌江さんです。
引用元:サンスポ
かしまし娘の突然の終わりに悩んだ正司歌江さん。以前から知り合いだった宝亀院の宮武峯雄僧正に「今後どうしたらいいのか」と相談に行くと、「得度を受けなさい」と言われました。
得度とは出家のことです。普通なら何年も修行しないといけませんが、正司さんは「あなたの今までの人生がいい修行になっている」と言われて「秀明尼(しゅうみょうに)」という法名をいただいたそうです。
その後は東京に拠点を移してお芝居や講演をするようになりました。松竹芸能の社長とはずっと会っていなかったそうですが、1995年の阪神・淡路大震災で社長の家が潰れてホテル住まいと聞いて心配の手紙を送ったのをきっかけに再会します。
その時、何がしたいのかと聞かれて「照枝と花江の3人で『三婆』をやりたい」と訴えたそうです。「三婆」というのは有吉佐和子さんの小説が原作の舞台で、東宝の作品なので松竹でやるのは無理かと思われましたが、社長が手配して実現しました。
東京の山の手が舞台なのを帝塚山に変えてセリフも大阪弁に直した「三婆」は評判が良く各地を巡業し、その後も年に1回はかしまし娘の3人でお芝居の1ヶ月興行をすることになったようです。
引用元:産経新聞
その後は2005年に結成50周年の前祝で上方お笑い大賞審査員特別賞を受賞して記念公演を行いました。小規模ながら活動を再開しましたが楽器は持たず、テーマソングはカラオケを用いて、漫談を披露するようになったとのことです。
こちらの画像は2008年の「かしまし娘」の3人です。手前が正司歌江さんで、奥の左側から照枝さん、花江さんです。
2017年には結成60周年を過ぎて「徹子の部屋」で久々に3人揃って出演し、翌年は大阪・道頓堀角座で34年ぶりに3人が舞台出演をしました。
「年齢も年齢ですから、左ひざは手術で人工関節を入れています。16年には心臓を患って入院。声が一時出なくなった。歌っていたときに比べて声が少し変わっちゃいましたけど、出るようになっただけでもありがたい。好きな日本酒も飲んでますし、花江ちゃんが食事をつくって持ってきたりしてくれる。」
引用元:サンスポ
2018年には「かしまし娘はまだまだ元気です」とお話しされましたが、正司さんは2022年から体調不良で療養され、2024年に老衰のため大阪府のご自宅でご主人や息子さんに見守られながら亡くなりました。
妹の照枝さん(当時90歳)は「♪これでおしまい かしまし娘~♪です。穏やかな最期だったようですが、いまはただ悲しい」と、花江さんは「面倒見のよい芸達者な姉でした。歌江姉ちゃん、ありがとう」とコメントされました。

照枝さんのコメントの「これでおしまい かしまし娘」って?

かしまし娘として活動してた頃、オチが特にない時に「これでおしまい」と歌って終わりにしてたところから取ったんだと思うよ!
【画像】正司歌江の息子は平井秀和!夫との馴れ初めは?
正司歌江の息子は平井秀和!
引用元:鈴鹿サーキット
引用元:日テレ
正司歌江さんの息子さんは、鈴鹿8時間耐久ロードレースに出場経験のある元オートバイレーサーで、現在はテレビ番組のプロデューサーをされている平井秀和さんです。
正司さんには特殊な能力があるのか、息子さんにまつわる不思議なエピソードがあります。
1969年の7月、神奈川県の撮影所に向かうタクシーに乗っている時に、車の前に子供が横切るのが見えたそうです。
その頃息子さんが大阪のご自宅のそばで車にはねられ、「7メートルほど飛ばされて脳内出血している」という連絡が入りました。
正司さんが泣いていると坂上二郎さんと萩本欽一さんが心配して、すぐ大阪に帰れるよう手配をしてくれたことで、息子の病院に駆けつけることができたそうです。病院に着くとお医者さんから「今晩がヤマです。水を欲しがっても飲ませてはいけない」と言われましたが、かわいそうで牛乳を飲ませたら意識が戻り、なんと後遺症も無かったそうです。

息子さんは現在テレビ番組のプロデューサーとのことだけど、どういう番組に関わっているのかな?

「欽ちゃんの仮装大賞」などを手掛けているんだって。事故の時に助けてくれたのが萩本欽一さん達だから、正司歌江さんは「不思議な縁」と語っているよ。
正司歌江の夫との馴れ初めは?
引用元:jiji.com
引用元:週刊女性PRIME
正司歌江さんの1回目のご結婚は10代の頃で、2回目は31歳の頃でした。2回目のご結婚のお相手は平井 基昭(ひらい もとあき)さんという方です。かしまし娘が売れっ子になり忙しい毎日を送る中で、朝日放送の「かしましアワー」などで音響を担当していた平井さんと知り合ったそうです。
平井さんは正司さんより7歳年下なので姉さん女房ということになりますね。2013年の「徹子の部屋」ではご夫婦揃って出演され、所属事務所の舞台で行った賑やかな金婚式の様子を公開されたそうです。
正司さんはそのようにご自分が幸せな結婚をされたためか、妹の花江さんの結婚話を勝手に進めたことがあります。「この人なら間違いない」と言われ、花江さんは顔見知り程度の人と結婚することになったのだとか。花江さんは新婚旅行で別府に行く途中にも「嫌だなぁ」と思っていたのですが、現地に着いたら照枝さんが現れたそうです。花江さんが途中で逃げ帰らないための監視役とのことで、花江さんご夫婦に照枝さん追加の3人で新婚旅行をされたのだとか!
自分の結婚の話を他人が勝手に進めるのは大体の方が嫌なものだと思いますが、歌江さんの男性を見る目は確かだったようで、花江さんご夫婦は一度も喧嘩をすることなく上手くいったので「今では姉に感謝している」とお話されました。

正司歌江さんは花江さんの旦那さんにどういう人を選んだんだろう?

7歳年上の放送局のディレクターさんなんだって。
お給料を全部渡してくれるし花江さんのお仕事にも理解があるしで、花江さんが嫌がったのは最初だけで上手くいったみたい。
正司歌江のプロフィール・著書
引用元:産経新聞
プロフィール
- 名前:正司 歌江(しょうじ うたえ)
- 本名: 平井 歌江(ひらい うたえ)
- 生年月日:1929年8月13日
- 年齢:享年94歳(2024年1月19日逝去)
- 出身地:北海道天塩郡遠別町
- 身長:156cm
- 趣味:釣り・麻雀
- 特技:三味線
- 所属事務所:WAHAHA本舗
著書

7歳から習ってた三味線が一生の特技になるのってかっこいいなぁ。
でも難しそうな楽器だし苦労もあったのかな?

三味線の先生はものすごく厳しい人で、間違えるとバチが飛んで来たんだって。その時に出来た傷は老後まで残ったみたいだね。