株式会社ディー・エヌ・エーの創業者で、現在は代表取締役会長として活躍を続けている南場智子さん。
プロ野球チームの横浜DeNAベイスターズ 取締役オーナーとして野球界も盛り上げてきました。
今回は南場智子さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】南場智子は若い頃かわいい!
10代(1972年~1982年)
引用元:X【妖精・劇場☆】
— オムレツ☆パンチm(_ _)m (@hitananase7) September 29, 2019
『分かる人には分かる!
よく見りゃ似てるこの2人!』
◆横浜DeNAベイスターズ☆
南場智子オーナー☆
◆『白ゆりのような女の子☆』
夏すみれ選手☆のお母さま!
➡︎若い頃の南場智子オーナー☆
美人さんでした(笑)#BAYSTARS#夏すみれ pic.twitter.com/vY0nkKnhKQ
南場智子さんは、1962年4月21日に新潟県新潟市で生まれました。
石油卸業を経営する父親は非常に厳しく、家族は誰も父親に逆らえないような家庭環境で育ちました。「女性に教育は必要ない。」という考えをもっていた父親は、宿題や模試を受けることすら許してくれなかったそうです。
県立新潟高校に通っていた南場智子さんは、高校3年生の時に東京の大学への進学を決意して、父親に打ち明けます。父親は南場智子さんを投げ飛ばすほど猛反対しましたが、父親に体当たりして説得を試みたそうです。
この時南場智子さんは、「それが初めての父への反抗でした。」とお話しされており、なんとしても親元を離れたいという強い思いがあったことが確認できます。
南場智子さんはその後、父親が決めた津田塾大学 英文学科に進学し、実家を出て東京に行くことができました。
上の3枚目の画像は、南場智子さんが高校生の時のものです。アイドルと言われてもおかしくないくらいの可愛さですよね!

お父さんは、南場智子さんの東京行きをよく許してくれたね。

本当は新潟大学に行かせようとしていたけど、南場智子さんのお母さんと高校の先生が説得してくれたみたいよ!
「女子寮がある女子大であること。卒業後は新潟に戻り、就職は自分に任せること。ボーイフレンドをつくらない。学生運動はしないこと。」という条件付きで津田塾大学に行けるようになったそうよ!
20代(1982年~1992年)
引用元:サンスポ
南場智子さんは、1984年(当時22歳)の時に、アメリカのペンシルベニア州フィラデルフィアの中心から電車で20分程の所に位置する、ブリンマー大学へ留学をしました。
上の画像はアメリカ留学中のものです。聡明なお顔立ちの中に、自分の力で留学を叶えた意志の強さを感じます。
年に1人の学生だけに与えられる大学の奨学金制度に選ばれるため、必死で勉強したそうです。ブリンマー大学では経済学を選択し、アメリカに渡ってからも夜中まで勉強する日々でした。
この時南場智子さんは、「留学中は、あんなにしたことはないというほど勉強しました。学問が面白いと思ったのもこのころです。」とお話しされており、60代になった今でも新しいことを吸収し続けている南場智子さんの、学習意欲の土台がこの頃に形成されたのかもしれません。
一方、留学を転機に、あれだけ恐れていた父親との関係性に変化がありました。
両親との手紙のやり取りの中で、「父親のいろいろな面を見られて、好感を持った」と言います。留学が終わってから2人でハワイ旅行をするくらいに距離が縮まり、一緒にゴルフやお酒を楽しむ思い出深い旅になったそうです。
引用元:サンスポ
南場智子さんは、大学生5年目の夏に、1年間のアメリカ留学から帰国しました。就職を考える時期でしたが、この時はまだやりたいことがなかったそうです。
そんな時に、先輩からマッキンゼー・アンド・カンパニーというコンサルタント会社の説明会に誘われて参加したのがきっかけで、就職試験を受けることになりました。1986年(当時24歳)の時、内定倍率100倍の人気企業の内定を勝ち取りました。
上の画像はマッキンゼーの最終面接当日に、津田塾大学の学生寮で撮影した時のものです。面接が得意だという南場智子さん。あまり緊張は感じられないように見えます。
マッキンゼーを受けようと考えたのは、説明会に参加した時に恰好良いと感じたからだそうで、ミーハーな気持ちで入社した会社では、仕事をこなすのに大変苦労したようです。毎日夜中まで働いて寝不足の日々が続きました。
この時南場智子さんは、「自分の価値を出せないことが一番辛かった。」とお話しされており、身体の辛さよりも実力を発揮できなかったくやしさを感じます。
引用元:サンスポ
南場智子さんは1988年(当時26歳)の時、仕事に限界を感じてマッキンゼー・アンド・カンパニーを退社しました。
退社後は、アメリカのボストンにあるハーバード・ビジネス・スクールに2年間の留学をし、1990年(当時28歳)の時にMBAを取得しています。上の画像はハーバード・ビジネス・スクールの時のものです。当時の友人とは、今でも交流が続いているそうです。
この時南場智子さんは、「マッキンゼーでもまれていたので、座学は要領よくこなせました。」とお話されており、アメリカでは、2年間の社会人経験を活かしながら学んでいたことが伺えますね。
しかし、1度目の留学とは違って勉強だけに没頭せず、プライベートでも充実した時間を過ごしたそうです。毎晩のようにチャイナタウンに食事に行ったり週末にドライブに行ったりしながら、疲労困憊の体と気持ちを回復させました。
留学中に気力を取り戻した南場智子さんは、2年前に退社したマッキンゼー日本支社に復職しました。

南場智子さんは、MBA取得後にそのままアメリカで就職することは考えなかったのかな?

それは、母親が病気になったという理由から、日本への帰国を決めたみたいよ!アメリカで就職活動をしていて、ニューヨークや北欧の企業から内定をもらっていたみたいだから、それがなければ海外で働いていたかもしれないね!
30代(1992年~2002年)
引用元:テレ朝news
南場智子さんは、1996年(当時34歳)の時に、マッキンゼー・アンド・カンパニーで日本人女性歴代3人目のパートナー(役員)に就任しました。
復職後は順調に出世したように思われていますが、最初のプロジェクトは上手くいかずに転職活動も始めていたそうです。しかし、マッキンゼー最後の思いで取り組んだプロジェクトが成功したことをきっかけに、以降の仕事が順調に進むようになりました。
この時南場智子さんは、「出来ないことをさらけ出し、皆に助けてもらいながら、仕事を進めることだけに集中出来た。」とお話しされており、転職を決め肩の力が抜けて、結果的に自分の力をうまく発揮できる状況になったのでしょう。
その後、インターネット関係のコンサルティングを担当し、新規事業の提案をする内に、南場智子さんの中でアドバイザーではなく、自分で事業やサービスを展開したいという感情が生まれます。
周囲に反対されながらも情熱が勝り、1999年(当時37歳)の時に、有限会社ディー・エヌ・エーを設立(同8月に株式会社へ組織変更)しました。上の画像はDeNA創業当時のものです。情熱あふれるキラキラした目が印象的ですね。
引用元:日本経済新聞
南場智子さんが立ち上げたDeNAは創業間もなく、危機的な状況になりました。発注していたオークションサイトの開発が全くできていないことが、サービス開始の3週間前に発覚したのです。
しかしDeNAの従業員や経営陣はそこで諦めません。外部のスーパーエンジニアを集めて短期間で開発を進め、1999年11月にサービスを開始させました。
その後、DeNAはモバイルに特化したサービスにシフトし、2003年に黒字化を達成しました。2004年には「モバオク」、2006年には「モバゲー」が大ヒットし、業績が急激に拡大しました。
オークションサイト開発のスタートで大失敗を経験した南場智子さんは、DeNAでも失敗のプロセスを大切にしているそうです。
「一生懸命やる中で失敗しても、全くマイナスにはなりません。むしろ、もっと大きなチャンスを与えて、この機会に挽回してくださいって言っています。」と、逃げずに誠実な姿を見せる大切さを従業員に伝えています。
上の画像は2021年頃のものです。南場智子さんは当時、自転車で会社に通っていました!

DeNAは、人材が成長できる環境がある魅力的な会社なんだね!人気企業で就職が難しいと聞いたことがあるけど、実際どのくらい難関なのかな?

新卒の採用倍率は20~30倍とも言われているみたいよ!
南場智子さんが、会社にとっての人材を「同じ目標に向かっていく同士のような存在」と表現していて、DeNAに入社してほしいと思った人物を4年も口説き続けたこともあるんだって!
40代以上(2002年~)
引用元:PRESIDENT Online
南場智子さんは、2011年(当時49歳)の時に、株式会社ディー・エヌ・エーの代表取締役社長を退任しました。
病を患った夫の看病を優先するため、代表取締役の責務を果たすことが困難になったことが退任の理由です。後任は、当時COO(最高執行責任者)の守安功さんでした。夫の紺屋勝成さんはマッキンゼーの元同僚で、南場智子さんが30歳前後の頃に結婚されています。
この時南場智子さんは、「もともと私は、その1年後の2012年に社長を退任することを目標としていたため、後継者は育っていました。」とお話しされており、次期社長に全幅の信頼を寄せていることが確認できます。
上の画像は社長退任の会見時のものです。南場智子さんはその後、夫の回復を機に、2015年(当時53歳)の時に株式会社ディー・エヌ・エーの取締役会長に就任しました。
引用元:Amazon『不格好経営』
引用元:NICE ナイス
南場智子さんは、1993年(当時51歳)の時に、著書『不格好経営』を出版しました。
ご自身の幼少期や学生時代の話、マッキンゼー時代と独立してからの失敗談や苦労話なども交え、南場智子さんの人生の歩みが書かれています。DeNAの魅力を知ることができ、経営面でも学びの多い書籍です。
また、南場智子さんは、これまで数多くの講演や対談を行い、次代を担う人材から経営者などの幅広い年代の人々にDeNAの人材やチームのこだわりなどについて伝えています。
南場智子さんは、「"ことに向かう"姿勢を重視している」と多くの場でお話しされていて、自分や相手を負かすことに向かいすぎずに仕事に向かい、"ことを成すことへの集中"を意味する言葉です。
これは、マッキンゼー時代、周りに助けてもらい、一緒にプロジェクトを進める重要性を知った経験からの理念ではないかと想像できます。
上の画像は1枚目が『不格好経営』の表紙で、2枚目が2025年1月22日に開催されたナイス株式会社主催の新春経済講演会の時のものです。成功する組織の裏側や、会社が大切にしていることを知ることができます。
引用元:X, X
南場智子さんは、2015年(当時53歳)の時に、株式会社ディー・エヌ・エーの取締役会長就任と同時に、日本プロ野球 横浜DeNAベイスターズのオーナーになりました。
前任の春田真さんが株式会社ディー・エヌ・エーの取締役会長を務めていた2012年にTBSから買収しており、引退時にオーナーとして引き継いでいます。横浜ベイスターズは2000年代には最下位を何度も経験していた勝てないチームでした。
しかし、これまでとはフィールドが異なるプロ野球界でも、南場智子さんは経営手腕を発揮します。
南場智子さんの「ことに向かう」理念に基づいてチームが野球に集中した結果、横浜DeNAベイスターズは2024年(当時62歳)に26年振り3度目の日本一に輝きました。
上の画像は2024年に横浜DeNAベイスターズが優勝した時のものです。南場智子さんは、祝勝会のビールかけに参加し、選手と一緒に優勝を喜びました。
横浜DeNAベイスターズは、同年9月5日の試合において、球団史上最速で観客動員数が200万人に到達し、今やプロ野球界人気球団の1つとなりました。

南場智子さんはどうやって横浜DeNAベイスターズを人気球団にしたの?

それは、最初に横浜スタジアムのトイレをきれいにしたらしいよ!
女性来場者に限定デザインのユニホームをプレゼントするイベントを開催したり、女性ならではの視点で改革を進めたんだね!
南場智子さんがオーナーの横浜DeNAベイスターズには誰が所属してる?
引用元:横浜DeNAベイスターズ、横浜DeNAベイスターズ、横浜DeNAベイスターズ
南場智子さんがオーナーの横浜DeNAベイスターズには、監督の三浦大輔さん、外野手の筒香嘉智さんや、内野手の牧秀悟さんなどが所属しています。
【画像】南場智子の夫は紺屋勝成!総資産がスゴイ!
南場智子の夫は紺屋勝成!
引用元:X
南場智子さんは、30歳前後の頃にマッキンゼー時代の同僚である紺屋勝成さんと結婚しました。
紺屋勝成さんは株式会社USENの元取締役で、封建的な考えの南場智子さんの父親とは真逆の、個人の自由を尊重する性格でした。お互いに干渉せず、自由にさせてもらっていたそうです。
そんな夫婦の元に、2人の人生を揺るがす大きな出来事が起こります。
紺屋勝成さんが、2011年4月にすい臓がんの告知を受けたのです。発見された時は、すでに他の部位にも転移が見られるステージ4のbという末期の状態でした。
この時南場智子さんは、「私の優先順位はDeNAから家族の命にバッシャンと切り替わってしまった。」とお話されており、仕事最優先だった南場智子さんがこの瞬間から、夫の病気に全力で向き合う覚悟をしたことが想像できます。
南場智子さんは、治療方針の判断をするために、病気について徹底的に勉強を始めます。専門家に相談し、膨大な本を読み込んでいきました。その後、友人の助けを借りて病院の先生と信頼関係を築き、国内でいくつかの治療を試す決断をします。
紺屋勝成さんは2年の闘病の末、画像には腫瘍が映らなくなるほどまで回復しました。しかし、寛解には至らず、2016年12月に53歳という若さで亡くなりました。
上の画像は2023年の紺屋勝成さんの命日に行われた「紺屋さん友人の集い」の時のものです。病気と闘っている間、誰よりも紺屋勝成さんご本人が1番冷静だったそうです。

株式会社USENの取締役として活躍していた紺屋勝成さんも、優秀な方だったんだよね?

南場智子さんが悩んで相談をした時は、いつも的確なアドバイスをくれていたみたいよ!オークションサイトの開発が進んでいない事が発覚した時は、「とにかく諦めるな」「自分が起こした大失態について過少に伝えたら駄目だよ」とごまかさずに誠実な対応をするように伝えたんだって。このアドバイスのおかげもあって、最終的に投資家の人たちに評価してもらえる結果になったんだね!
南場智子の総資産がスゴイ!
引用元:女の転職 type, フルスイング by DeNA
南場智子さんは、2013年(当時51歳)の時に、アメリカの経済誌フォーブスの「日本の富豪50人」にランクインしました。順位は47位で、純資産が5.5億USドル、日本円換算で523億円(当時のレート1ドル=95円)と発表されており、その年の株式会社ディー・エヌ・エーの売上高は、なんと約2,000億円でした。
2013年以降は選出されていませんが、現在の南場智子さんの資産もスゴイです!
資産として考えられる、会社の役員報酬、保有株式、不動産について見てみましょう。
まず、2024年3月時点の株式会社ディー・エヌ・エーの役員報酬は、4,500万円。南場智子さんは同社の株を保有しており、保有割合が17.8%、保有額は約353億円でした。
自宅は、株式会社ディー・エヌ・エー本社のある渋谷スクランブルスクエア近辺と言われています。その辺りの不動産相場は10~30億円にもなるそうです。
以上のことから、総資産は少なくとも、420億円は超えるのではないかと推定されます。

南場智子さんは、資産をどう使っていこうと考えているのかな?

それは、教育やDeNAからの独立起業への出資をして、スタートアップが躍進できる環境づくりを進めているみたいよ!
南場智子さんが株式会社ディー・エヌ・エーを設立した1999年はこんな年だった!
引用元:日本経済新聞、NHK『キーワードでみる年表 平成30年の歩み』、Aflo『1999年の出来事』
南場智子さんが株式会社ディー・エヌ・エーを設立した1999年は、「都知事選 石原慎太郎氏当選」、「ソニー 子犬型ロボット「AIBO」発売」、「欧州単一通貨ユーロ登場」などの出来事があり、話題となりました。
また、この年の流行語(大賞)は、スポーツの「雑草魂」で、当時、読売ジャイアンツに所属していた上原浩治さんが受賞しました。
南場智子のプロフィール・SNS
引用元:DIAMOND online
プロフィール
- 名前:南場 智子(なんば ともこ)
- 生年月日:1962年4月21日
- 年齢:62歳(2025年2月現在)
- 出身地:新潟県
- 趣味:読書
- 所属事務所:株式会社ディー・エヌ・エー 代表取締役会長
株式会社横浜DeNAベイスターズ 取締役オーナー
SNS
- X(旧Twitter) URL:https://x.com/tomochinski
大尊敬するAnn Miura-Koとの対談、後半の記事出ました。AI時代、カリスマ的リーダーは不要になる?!最後まで読んでいただけたら嬉しいです。https://t.co/OADNEmpVIN
— 南場智子 (@tomochinski) February 26, 2025
- YouTube URL:https://www.youtube.com/@DeNA-Business
- オフィシャルサイト URL:https://dena.com/jp/company/message.html



横浜DeNAベイスターズ祝勝会でビールかけをしている時の南場智子さんの最高の笑顔がとっても素敵だね!選手やファンからも親しまれているようだけど、元々野球は好きだったのかな?

横浜DeNAベイスターズのオーナーになる前から野球は好きだったみたいよ!夫の紺屋勝成さんと一緒に応援にも行っていたんだって。
ポジハメくん(ポジティブな横浜DeNAベイスターズファンを総称する顔文字)にちなんで"ポジママ"の愛称でファンから愛されているよ!